『英語教育の危機』を読む・英語教育について考える【読書】

今週は、以前買った鳥飼玖美子(著)『英語教育の危機』(ちくま新書)を読みました。
英語教育はみんなの注目の的。

あれはダメだ、これはダメだと言ってみたり。
逆に、あれがいいとか、こうすべきとか言ってみたり。
TOEICが必要だなんだと言ってみたり。
小学校から始めなきゃ!コミュニケーション!英会話!

でも、私たちはどれだけ実情を知っているのでしょうか。

鳥飼玖美子『英語教育の危機』の目次
 まえがき
 序章 英語教育は今、どうなっているのか?
 第1章 英語教育「改革」史
 第2章 二〇二〇年からの英語教育ー新学習指導要領を検証する
 第3章 なぜ民間試験は問題か
 第4章 「コミュニケーションに使える英語」を目指して
 あとがき
 参考文献



感想(特に引用してそれについて考えを述べる形式ではありません。詳細は本を読んでください。)

英語嫌い増量政策
なんか読んでいて、政府が打ち出している英語教育に関する政策って全体的に現実味がないなぁという感想をもった。
できたらいいけどさぁ、だったら教員増やして、教員一人一人の負担を減らさなきゃ無理だと思うよ…。

それに、なんのデータにも基づいていない改革みたいだし。
私たちが、「政府が新しい方針を出した」と聞けば、きっと今まで蓄積された英語教育や言語学の研究やデータから判断して、最良のものを出しているのだろうと普通おもうだろうけど、そんなことは全くないらしい。

自分が受けた英語教育では自分は英語はできるようにならなかった。
自分の周りもそうだ。
だから、文法偏重の英語教育はよくない。
これからはコミュニケーションの時代だ!

…と謎な論理展開。(詳しくは本を読んでみてください。細かく書いてあります。)

確かに文法だけやってるのはよくないと思うけど、だからってコミュニケーションだけが言語じゃない。
でもそんなことはそっちのけ。

著者は丁寧に指導要領を読み込み、分析している。
そうしてみてみると、小・中・高で学習指導要領にほぼ文言に変化がないことが発覚!!
それって、怖くない?

小学校から高校まで同じような能力が求められるって、教育をするにあたって思考停止状態なのでは…?
「小学校ではAができるようになりましょう。それが中学校で習得するべきBを学習する上で助けになります。それから、高校に入ったら、Bを元にしてCができるようにしましょう。」って、英語能力以外の能力も考慮しながら何が適切な指導なのかということを示すのが政府が打ち出すべき教育なんじゃないの?

「とりあえずひっくるめて英語のコミュニケーション能力つけましょう!」
っていうんだったら、誰でも言えるし…。
全体の流れを導くという国の責務を放棄しているように感じるのは私だけ?
指導要領というよりも、「英会話学校のパンフレットに載ってる標語」にしか見えない。
パンプレットの標語を現実化するためにカリキュラムを考えるのは教員ってことでしょうか。

求められているレベルが小学校のうちから高すぎて、しかもそれを指導できる教員がいない。
能力的にも、英語を教えられる小学校教員は今まで専門的に育成していないし、ただでさえ教員の労働環境が悪質であることが問題になっている昨今においては物理的に無理です!って感じなんじゃないだろうか、現場は。

ちょっとした研修はやっているのだろうけど、研修ごときで英語教えられるようになったら生徒も先生もお互い苦労しないよね。ただでさえ忙しいのに。

でも、そんな簡単な話じゃない。
その中で、能力的に足りない教員がカリキュラム考えるところからやって、生徒に求めるレベルはとても高い。

これは、誰だって英語嫌いになるんじゃない?
私は英語嫌いな方じゃないとおもうけど、多分これやられたら嫌いになるなぁということがたくさん書かれていました。

自分の子供に英語嫌いにならないでほしい親御さん!
この本は一読しておくべきだと思います。


そもそも、英語って必要なの?という問い
本の中で、大学入試に四技能試験(しかも民間の試験)を導入するということに対して、著者は「大学に入る人の全員が英語ができなきゃいけないのか」という問いを提起されていましたが、本当にそうだなぁとおもいました。
別に日本にいる限り英語できなくても困らないとおもうし、できればそりゃいい時もあるけど、日常的に高いレベルが必要かって言われると別にそうでもない気が…。

文系の人は数学を受験で使わなくていい場合もあるわけですし、なんでみんながみんな一律に英語ができなきゃいけないのか、あまり理由がはっきりしない。

確かに、私自身は英語できてよかったとおもう。それは間違いない。
なぜなら、日本語だけじゃ知りえない世界を知ることができるし、映画だって新聞だって英語で読めるから、アクセスできる数が圧倒的に多い。
そこにフランス語が加わるのでさらに広い範囲へのアクセスが可能。
英語の家庭教師したり、翻訳したりしてお金もちょこちょこ稼げる。

でも、それはみんながみんな必要だと思うことじゃないともおもう。
できるようになりたい人に学ぶ手段を提供することと、英語ができないとその人自身が勉強したいことを学ぶための大学に入れないというのは違いがあるし、考慮されるべき違いではないか。

そんなことをおもいました。

民間試験を使うなんてありえない
癒着〜、汚職〜
これ以上言うことありません!ってぐらい癒着の一言に尽きる。

教育ってなんだろうね…
日本の教育はついにベネッセやETSを儲けさせるためのプロジェクトになったんですか?

英語ができる人は軽視しないような勉強を軽視する教育
私が知っている範囲でですが、語学ができる人は文法の勉強も訳読の勉強も軽視していないです。
学校のやり方は確かに最適じゃないかもね、とはおもっているかもしれません。
でも、だからといって「英語で授業して訳読なくせ!」とか「文法はいいから、コミュニケーション重視で!」とか言っているひとはいないよ。

英語を一生懸命勉強してできるようになった人でもない…
勉強一生懸命したけど英語ができるようにならなかった人でもない…
英語を一生懸命勉強したことがなくて結果として英語ができない人が考えた教育なのではないかという印象を受けました。



この記事は、読んで私が持った感想を書いたもので、本の内容に必ずしも依拠していません。
また、著者の主張を代弁しているものでもありません。
少しでも英語教育に興味がある方は、読んでみることをお勧めします。

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